毎日お疲れ様
毎日、お疲れ様です。最近なんだかへろへろで参った。よく考えると次の短答試験まで残り8ヶ月くらいしかないのか。本当に時間がないんやね。その中で下三法も進めていかないといけない。ところで、今日はそれに絡んだ話でもあるんだけど、転職しようかどうか思案している。
今の予備校を辞めて、特許事務所に転職する。そろそろ30歳も越えたことだし、実務未経験のまま勉強だけしているのは良くない時期に差し掛かってきている。そんな風に思う。
一方で、今までの慣れた環境で仕事を続けていれば勉強もやりやすいだろうなと思うし、実務と並行してやるのはキャパオーバーにならないか?とか、せっかく今の職場環境が悪いわけではないのにミスミス捨ててしまって次にいくのはもったいないのではないかとか(全て詭弁)。
結局こういうときは「ええいっ!」て感じで飛び込んでみるしかないんだと思う。だって飛び込んでみてどうなるかなんて誰もわからないし、じゃあ飛び込まずにずっと怖気付いてもっと年をとったときに「こうしておけばよかった。」なんて今まで何度やってきてるんだって話だし。
そうそう、今までずっと色んなことに怖気付いて無難な道(挑戦しない楽な方)を選び続けてきた。まあその選択で死ぬような事態にならなかったし、それなりにやれてきているので多少の(大いなる?)後悔もありつつ、全部背負って生きている感じ。人間生まれながらにして最良の道を選び続けることなんてできないし。
そんな感じで生きてると、妥協と後悔と納得が入り混じった平々凡々のアラサーが完成する。ただ、それは今まではそうだったという話で、これからも同じように生きていくのかと言われるとそれは違う。人間はなんだかんだ少しずつ学んでいく。だらだら生きる生活をして毎日寝て過ごしていたとしても、後悔という形で学び成長することはできると思う(後悔すらなかったらもう終わりだと思うけど、誰にも迷惑をかけずに満足しているのならそれでオールオッケーだとは思う。)。
まあそんな感じで10代・20代を振り返るとあまり挑戦をしてこなかった人生だったなあと思うわけで。何よりも怖い・楽をしたい・怠けたいが先行してしまう性格なので、どうしてもこうなる。20代の中頃、会社にも慣れて、「飲み会⇄会社」みたいな生活を繰り返していたときに、「これでは不毛だった大学生活と同じことをしている!!良くない!」と思って始めたのが英会話だった。
社会人になって休日に勉強をする習慣がついたのはまぎれもなく弁理士試験からではなく英語学習からだった。最初のうちは何でこんなことしてるんだろう?と思ってたけど、おかげで少しは外国人とコミュニケーションを取れるようになったし、海外に旅行するようになったし、TOEICという形で点数も跳ね返ってきた。何よりも休日に勉強をする土台ができたような感じがする。
そんな感じで、20代の中頃は大学時代を振り返って、「これではいかん!」と思うようになった。結局のところ人生を変えるのは自分の心でしかなくて、他人(外部)に触発されて動いている気がするけど、本当のところはそれはきっかけに過ぎないんだと思う。結局、人間は自発的な自浄作用でしか変われない。
そんな感じで30代を迎えて(というか性格には29歳の誕生日)、「これではいかん!」と思い、知財検定を受け始めた。そして、「ゆるく建設的に生きよう。」と心に決めた20代の中頃。次の目標は、「身を捨ててこそ浮かぶ背もあれ」だなと思う。
丁か半か。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。No pain, no gain.
大袈裟かもしれないけど、未経験を経験する最初の0→1は怖いし、面倒くさい。できれば今のままでいたいし、今で60〜70点くらいの人生だったらこのくらいで「足るを知ってしまった方が楽だ。」とどうしても計算してしまう。将来化ける期待値がどうしても低くなるのだ。
期待値というのは、簡単に説明すると、
起きる確率が100%の場合を1、0%の場合を0とする。今の生活が60点だとすると、今の生活は”事実”なのだから、起きる確率は1である(つまり実際起きている)。だから60×1=60。この60というポイントが期待値。
例えば、特許事務所に転職するでも、自分のやりたいことに向かうでも何でもいいけど、それで得られる期待値を考える。
特許事務所に転職して実務経験を積んで、弁理士になり、今まで経験しなかった景色を見る生活が150点だとする。でも、これが将来事実となる確率(=起きる確率)は0.5、いや、0.2かもしれない。自分に対して期待することや、変化することのマイナス面を錯覚してあまりに大きく捉えてしまうと、この数字はどんどん落ちてしまう。不安症の人はきっとこの数値がどんどん小さくなる。限りなく0にまで近くなったら、どれだけ変化することで得られる人生の満足度が150点だったとしても、150×0=0となる。期待値は0だ。
逆に生活を変化させることで、60点の生活から70点の生活になるかも?という変化があるとする。不安症と正反対の人ですごくポジティブシンキングな人だと、将来、60点の生活から70点の生活になる確率を0.99と設定するかもしれない。そうすると、当たり前だけど、
60×1<70×0.99
でどんどん行動することができるというわけだ。別に計算で説明する必要はないかもしれないけど、要するに気楽にtake it easyな感じで人生を捉えていれば、どんどん人生は好転するし、仮に変化することで生活の点数が落ちたとしても、また行動することができる。
人は経験した事実からしか学べないんだなとこの歳になってやっと感じる。変わらねば。問題の先延ばしは良くない。ただひたすら事実に直面して生きる。辛いけど、これをしないときっと人生は好転しない。箱に入ったみかんと同じで、どんどん腐っていく。箱から出てしまってオレンジジュースでもなんでもいいから次の人生に進む勇気さえあればそこでまた見られる新しい人生が待っている。怖くても動かないと。
「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」と「人間万事塞翁が馬」の最強コンボ
30代前半のテーマはこれでいきたいと思う。
「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」→「人間万事塞翁が馬」
結局、保守的、保守的になって何もしないと何も始まらない。やって後悔ってやつだ。とりあえずコマを進めてみよう。進めて失敗だなと思っていても、それは長期的には失敗じゃなかったりする。だから、私はこの2つをテーマに当分5年くらいは生きてみようかと思う。
50歳、60歳になって「こうしてればよかった。」なんて悲しいし遅すぎる。人間はいつからでもやり直せる(と思うけど)、それでも早ければ早いに越したことはない。もはや指数関数的に早い方が良いと思う。
こんなことを30歳を迎えて言ってるやつもいれば、10代から前を向いて生きている奴もいるし、そもそも「保守的になる」という発想がない奴だっている。そんな奴らは私なんかよりもっと先に人生を進めているわけだけど、逆にこれに気づくのに40年、50年かかる人もいる。最期まで気付かないなら幸せだけど、きっと人間は本音の部分では気付くようにできている。だから、将来の自分が今の自分に「そっちの道を選んでくれてありがとう。」と言ってもらえる選択をして、人生を送りたい。
コメント