鎌倉殿の13人 誰が誰に敬語を使うの?
日曜日の鎌倉殿の13人。これだけを楽しみに生きているニシジマです。面白いですよね。
前回は確か嫁ぐはずだった頼朝と政子の娘、大姫の死と範頼の謀反の疑いによる死刑の話。善児が出てきて一発でグサっと刺す。鎌倉殿を見た後にネット上の色んな考察を見てると結構面白いです。
善児って架空人物なんですが、なんでこんなに暗躍するのか?という疑問に対しては、善児がいないと登場人物全員が善児化してしまうので、汚れ役を一手に引き受けているとのこと。まあ確かに良い人の役柄だったりするとブレますしね。
あとは善児によって殺されるときは「死んでほしい」と思って殺している側面がある。その点、義経(頼朝の弟)が死ぬときは(全員が死んで欲しくないと思っていつつなので)善児による暗殺ではなかったりなど。なるほどなあなんて色々関心させられます。
で、今回話をしたいのは、偶然三ツ矢サイダーを飲みながら鎌倉殿を見ていて、”三ツ矢”ってそういう由来だったのね。という話とそれに付随して(あんまり関係ないけど)、頼朝の立ち位置ってかなり複雑だよなあと思う話です。
三ツ矢の由来と頼朝との繋がり
三ツ矢サイダーって元々江戸時代の頃に兵庫県の川西市に「平野鉱泉」っていう炭酸泉で有名な土地があったんですね。で、元々温泉だったんだけど、それが廃れてどう使おうか?となった時に、炭酸水として売ろうという流れになったのだとか。ちなみに三ツ矢サイダーの前身である”平野水”は1884年から販売されているらしく、缶にもしっかりとsince1884年と書かれています。
で、本題のどうして”三ツ矢”なのかという話なのですが、ある逸話を元に”三ツ矢”という名前がつけられました。その由来となったのが、源満仲(みなもとのみつなか、ただのまんじゅう)。
え?誰ですか?って感じですが、平たく言うと、源頼朝からすごく遡った祖祖祖…父ですね。この源満仲が家を建てるときにどこに建てるかを決めるために矢を3本放ったのだとか。で、その矢の一つが平野に落ちて、拾いに行くと温泉があったみたいな話らしいです。その逸話から”三ツ矢”という名前が付いているんですよね。
色々調べてみると知らないところで繋がることもあるんだなと変な感じです。でも、今回話をしたいのはどちらかというと三ツ矢の由来ではなく…
頼朝の立場?誰が誰に敬語を使う?
鎌倉殿を最初の頃見ていると、頼朝は伊豆に流されている流人だったんですよ。
ちょっと歴史の経緯を話すと、頼朝の父、義朝が平氏と戦って破れるんですね。これが1159年の話。そこで、義朝はもちろん死刑。頼朝は少年だったため、見逃してもらって伊豆へと流されます。
つまり、頼朝は父親が死刑になって、伊豆で無期懲役を言い渡されている流人なんですよ。それを匿ったのが北条氏。
で、鎌倉殿が始まった頃、北条氏が流人の頼朝を匿っている時、普通なら北条氏が頼朝にタメ語で、頼朝は「ありがとうございます!!」って感じなのかな?と思ってたら、意外と対等もしくは頼朝の方が上な雰囲気で話をしているんですよね。
なんて不遜な奴だ!と思ったのですが、よくよく考えると頼朝は流人と言えど、元は貴族。一方で北条氏はあくまで伊豆で力を持っていただけの豪族。血筋的にいうと、天と地くらいに違うわけです。
頼朝って武士じゃないんですよね。どちらかというと貴族側(=武家という貴族)というか。でも貴族ではなくなっている(?)。すごく微妙なんだなこれが。
だから鎌倉から上京して九条兼実と話をする時は完全に九条兼実>>頼朝って感じの言葉遣いなんですね。つまり、血筋が貴族的かどうかでいうと、九条兼実>頼朝>北条氏なわけです。
いやいや歴史を知っている人からすれば当たり前なのかもしれないのですが、私個人としては誰が誰に敬語を使うのかって興味あるんですよね。で色々調べてたりして、ああそうなのかと思ったりして。(細かいところ間違っていたらごめんなさい。)
頼朝のルーツと源平藤橘
源平藤橘という言葉は知ってますか?日本の4つの代表的な氏を指します。源平橘に関しては、臣籍降下による氏で藤原は臣籍降下による氏ではなく、恩賞による氏です。
臣籍降下というのは、”皇族から離脱して庶民(=臣籍)になること“です。
え?離脱するなんてもったいない!と思うかもしれませんが、全員皇族にしていると全部の親戚、子供たちを皇族のお金で食わしていかないといけなくなります。そこで、天皇から4親等離れたらもう君は皇族じゃないからね。ということにするルールですね。
それってちょっと可哀想だなあと感じるかもしれませんが、4親等も離れて皇族をやってるよりも臣籍降下をして、一旦庶民になり、良いポジションの役職に就く方がメリットがあったりするため自分から進んで臣籍降下をするパターンもあるそうです。
源平藤橘の話に戻ります。
- 源氏は遡ると清和天皇に繋がります。臣籍降下をしたのが源経基。その子供が源満仲です。
- 平氏は遡ると桓武天皇に繋がります。臣籍降下をしたのが平高望です。
つまり、源経基や平高望が源氏と平氏の祖となります(皇族から庶民への分岐点)。
- 橘氏は遡ると敏達天皇に繋がります。臣籍降下をしたのが橘諸兄です。
では、藤原氏って誰がルーツなんや?と思って調べてみました(というか、源氏は清和源氏、平氏は桓武平氏だから知ってたけど、橘氏がどの天皇の子孫にあたるのかも知らなかった)。
藤原氏は遡るとみんなが知ってる藤原鎌足です。あれってひょこっと飛鳥時代にでてきてなんか中大兄皇子(のちの天智天皇)と乙巳の変(645)で活躍するけど、そもそも誰やねん!?
って思って調べてみました。藤原鎌足は元々中臣鎌足で、氏をもらって藤原鎌足に改名しています。つまり、皇族と血は繋がっていないんですよね。藤原氏って。一応、古事記では、なんとかの神様が祖みたいになっているらしいですが、まあ古事記はほぼ作り話みたいなものなので笑
だからまあ当時の有力豪族ってくらいで、日本史の初期段階で皇族と近いところで仕事していた人ってくらいなんでしょうね。あんまり詳しくはわかりませんでした。ネットで調べてたら渡来人説もあった。
そして、ここまで話していてとにかくこの”源平藤橘”は皇族に近しいいわば貴族みたいな人たちの集団(=血筋が良い)だったわけです。で、この九条兼実って遡ると藤原氏なんですよね。つまり藤原鎌足の子孫。
一方で、頼朝は?というと源氏の嫡流。だけど、半分武士半分貴族という微妙な立ち位置。しかも流人でもう京で暮らしているわけじゃない。いわば田舎者。都落ち。京都では血生臭いと忌み嫌われるシーンもあったり。
「都落ちの半武士半貴族の頼朝」と「都に住む貴族、九条兼実」。頼朝が九条兼実に敬語を使うわけですね。まあ当たり前か。頼朝って絶妙な立ち位置ですよね。鎌倉に帰ると高貴なお方だし、京に行けば都落ちだし。まあでも”征夷大将軍(つまり武士のトップ)”となってるわけだから貴族よりは下なんでしょうね。あんまり官位などはよくわかりませんが。
wikipediaで歴史上の人物のルーツを辿る
wikipediaの面白い遊び方を一つ紹介したいと思います。私が個人的にハマっているだけなのですが、歴史上の有名人物を検索してwikipediaの紹介欄の父親をどんどんクリックしていくんですね。そしたら、え?こいつの先祖こいつかよ!?とか色々出てきます。
ちなみに有名な話が、鎌倉幕府は源頼朝、室町幕府は足利尊氏、江戸幕府は徳川家康。これみんな源氏だそうです。
ちなみに豊臣秀吉はあんまり遡れません。元々農民(豪農)だったので。織田信長は平氏を名乗っていたらしいですが、本当は違うとか?
足利尊氏は遡ると源義家(頼朝の父)に辿り着きました。徳川家康は途中で切れてしまったのですが、新田義重というのが先祖らしいです。新田義重も遡ると源義家に辿り着きます。
幕府を開いたのはみんな源氏ですね。歴史は高校時代に受験勉強で少しやってただけで、あんまりよくわかってないので間違っていたらごめんなさい。でも色々調べてみるとおもしろいですよね。
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