言葉に責任を持ちすぎている
どうもニシジマです。今日は、最近考えている、発言に無責任であれ。という話。何かを宣言すると、最後まで遂行しないと何か約束を破ったかのような気になる。最後まで遂行しないと「ちゃんと最後までやらない人なんだ。逃げ出す人なんだ。」と思われる気がする。
そんな感情に押されて、言い出して後に引けないみたいなことって多分人生生きてたら100回も200回もあったと思う。その呪縛からそろそろ解放されてもいいのではないか?もう流石に、もっと気楽に生きても良いんじゃないか?と思って今日はこの記事を書いている。
我慢・耐えることを美徳とする教育に犯された私たち
「耐えなさい。今我慢すると、将来きっと良いことがあるから。」と言われて育った。楽は苦の種、苦は楽の種。そんな風に言われて育った。そして、いつまでもいつまでも耐えることこそがいつかの幸せに繋がるという幻想を信じて、また今日も耐える。
でもさあ。流石に30年近く生きてるとわかるよね。耐えることも大切だけど、違うなと思ったときに逃げること。
誰かに何かを啖呵切ったり、宣言したからって、それを最後まで突き通す必要はないこと。
結局のところ、あんたの人生を生きてるのはあんただし、どれだけ否定されようとも迷惑をかけていないのなら、啖呵を切ったことも宣言したことも忘れちゃって、「ああごめんごめん!」と開き直れた方がよっぽど楽な人生を歩める。
すべてにおいて我慢せずにストレスフリーに生きれば良いと言ってるんじゃない。毎日、毎日生きて続けてることって色々あるけど、「あれ?違うな。」と思ったときに過去の自分という亡霊に引っ掻き回されるな。ということを言いたい。
AとBという選択があった。過去の自分はAだ!!!と思って、その時の直感に乗っかって進んだ。そしてあれから数年が経った。でも、今Aじゃない。今更Bは違うけど、Cという選択だってある。そんな風に軌道修正しても良いんじゃないか?と思う。
私たちはAの道半ばで退場することをどうしても嫌う傾向にある気がする。それは、多分根本的に、日本の教育が「我慢しなさい。」「耐えなさい。」というスタンスで、それに従順に生きてきた私たちだから身に染みた奴隷根性みたいなものがそうさせている。
でも、よく考えてほしい。結局のところ、今のあなたの人生は、今のあなたが生きているのであって、過去のあなたが生きているわけではない。だから、宣言したあの日と違う感情を抱いても問題はない。
違う感情を抱くあなたはきっと思う。今までかけてきた時間や、お金がもったいないと。でも、もはや今の自分が”違う”と感じているその道をずっと突き進めることにほとんど意味はない。
明確に損切をしてしまって赤字を確定させることが怖いから塩漬けしているだけなのだと思う。塩漬けしていれば赤字が確定するわけじゃないし、0.1%の確率で上向くことだってあるかもしれないから。
でも、もう今のあなたは”違う”と感じている。過去の自分が出した結論が正しかったとは正面切っては言えない状況になっている。さて、ここで損切できるか。
今の自分に正直であれ。過去の発言に無責任であれ。朝令暮改であれ。
過去の自分という亡霊に引っ掻き回されて、周囲の空気感に引っ込みがつかなくなって、不本意ながらに今の道を歩み続けてることって本当に意味はない。損切せずに進むことは余計に大きい損を生むから。だから今。読み始めた本がつまらなかったら、買ったことを後悔して読み進めるより、さっさと古本屋に売ってしまえと。それがきっと面白い本と出会うための唯一の方法だと思う。
そうそう、朝令暮改。あの時はそう言ってたな~!(だから?)で良い。人生は引き際。
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