映画ソラニンは見る年代にめっちゃ依る映画
先日、夜になんとなく映画のソラニンを見たくなって見た。確か、高校時代か浪人時代かくらいの時に映画館で見たことがあった映画で、当時は何となく宮崎あおい目当てくらいの感じで見に行ったように思う。
あんまりこの映画を当時見た感想って覚えてないんだけど、どんな風に感じてたのかな。改めて30代になって見てみると全然違う感想が湧いてくるような映画だった。
映画の内容をざっくり話すと、大学卒業してすぐくらいの24歳の社会人が抱える悩みみたいなのを全面に出してる映画で、”モラトリアムが燃え尽きそうな時に感じる思い”みたいな映画。
24歳くらいの時って、まだ社会に出てすぐでいまいち社会人になったもののよく分からなくて、本当にこれが自分の選んだ道なのかな?とか、こうやって生きるために生まれてきたのかな?とか考えてしまう時期なんだと思う。
確かに思い返すと、24歳くらいの時に社会人サークルに行ったりしたり、飲み会をしたりして、「あれ?これが俺が思ってた生き方なんかな?レールから外れるのってめっちゃ怖いけど、レールに乗って生きてるこの人生で正しいのかな。」そんな風に考えながらもやもやした気持ちで生きてたような気がする。
当時の自分はそれが嫌になって英語学習をスタートさせた。おかげさまで海外に友人もできたし、海外旅行をするようになったし、TOEICもそれなりの成績になったので今となっては一つの大きな財産になったなと思う。そんな風にして、モラトリアムから脱皮をする時が24歳くらいなのかな?と思う
まあそういうことを描いている映画で一度良かったら見て欲しい。
そして、27、28くらいになってくると今度はモラトリアムからは脱却して、自分に期待をしなくなる。「あっ俺ってこのくらいだな。」と思うようになって、社会で生きることに対して納得してしまうようになる。
俺って特別な人間なのではないか?という気持ちが日々の生活を通じて擦り切れていくのが27、28くらいなのかもしれない。そうやって、自分の才能や能力に折り合いをつけて社会に上手く溶け込み、自嘲的になりながらも自分の人生に納得するのが27、28。
で、30を過ぎて改めてこの映画を見ると、青臭いなってなる。青臭くて良いんだけど。そんな風にして、人生に諦めて、自尊心を良い感じに削ってもらって真っ当な人間になる。
夢追い人っていう言葉は一見良い響きだけど、叶えられないくらいかけ離れた夢を追いかけている30代は痛い感じもする。まあそんな風にして人生に納得して、諦めて生きていく。枯山水の趣。
諦めるのと覚悟をするのはよく似ている
この映画を見て感じたのは”諦めるのと覚悟をするのはよく似ていて表裏一体なんだな”ということ。諦めるというのは、確定死刑囚が「出房!!」と看守に言われて、自分の命を諦めるというイメージで、これって、死ぬことを覚悟するのとよく似ている気がする。死ぬことを覚悟をすることと自分の命を諦めるというのは何が違うんだろう。
諦める。覚悟する。諦める。覚悟をする。
諦めるというとすごく悲観的に聞こえるし、覚悟をするってなんだかかっこいい響きがあるけど、結局どちらも同じことを言ってるんじゃないかな?と思う。諦めるって、実は結構勇敢なことですよ。と私は言いたい。
“No pain no gain.”とか”身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ”とかすごく好きな言葉で、何かを得たい、得ようとする時には必ず痛みを伴うのが世の常なのだなということを教えてくれていて、そういう風に言われると、今痛みを伴うことは間違いじゃないんだなと教えられている気がする。
「今、痛みを伴っていることは別に間違ったことではないよ!」と先人に言われている気がする。そんな気がして気が楽になる。
have toとmustの違いと同じで、have toって、「外部からちゃんとしなさい!!」って怒られて「しなければならない。」で、mustって、自らの意思で「よし!!!頑張るぞ!ちゃんとしなきゃ!!」ってことでそういう違いがあるって教えられるけど、別にhave toでもかっこいいし、どっちにしろちゃんとしようと努めているんだから良いじゃん。という気がする。諦めって、覚悟と同じくらい偉い事だよと言いたい。そんな感じでアジカンのソラニンを最近よく聴いてる。
コメント