短答直前期、人生を考える
どうもニシジマです。あと数日で弁理士短答試験です。3月末くらいから直前期感が少しずつ出てきて、4月末にギアがもう1段階上がり、5月に入っていよいよって感じでした。もう正直直前に色んな事を覚えてめちゃくちゃしんどい。
覚えて忘れて覚えて忘れて。結局定着させるほどの余裕はなく、今ギリギリ覚えてる知識みたいなもので戦う必要がありそうです。でも、この試験の膨大さから考えるとはっきり言って1、2年でかっちり知識を蓄えていざ出陣というのは正直難しそう。相当考える力、理解する力が高い場合は別かもしれないけど、私みたいな平平凡凡な人間からすればかなり厳しい。厳しすぎる。難しすぎる。量が多すぎる。
ということで愚痴を言ってても仕方ないので、ブログは15分で書ききるとして、これを書いたらもう寝る。今日も勉強して疲れた。ここのところずっと勉強でほんまに疲れた。飲み会も3月末からセーブしてて本当に日々楽しくない。無味乾燥な毎日。「なんでこんなことしてるんやろう?」の自問自答。
無心になってただただ膨大な条文を覚えていく。難解な過去問の論点を理解していく。それだけ。仕事はそこそこ。でも、5月に入って仕事も放棄しだした。短答試験終了してからがヤバい。とにかくヤバい。
人生は選択の連続
人生は選択の連続。何か直前期になって、そういえばこんなことをしたかったんやった。と思い出したことがある。それが世界一周。
たった数か月、たった3か月、4か月で良いから休みたい。休んで世界を旅してみたい。そう思った。20代の頃社会人をやっていて、「脱サラするか?」と思ったことが何度かある。でも結局やめた。やる勇気がなかった。もし今25,26歳くらいなら迷いなく脱サラしてただろうな。
そんな感じで、機を逃していく。そして気づけば30を過ぎて、昔そんなことを思っていたことを思いだす。あの頃に戻ったらきっと仕事をやめて数か月旅に出て、それから戻ってきてまた新しい仕事を探すんだろうなって。でも、そんな勇気がなかった。今から思えば本当に小さな小さな勇気だと思うし、多分戻ってきても普通に正社員の仕事はあったと思う。
決断をしない人間はどんどん置いて行かれる。どんどん選択肢は狭まっていよいよもう選ぶ立場になんかいなくなる。だからこそ資格職は強いなあなんて思ったりする。資格職って自分の腕で食ってるし、何といっても”国家”資格だから。腐っても日の丸というわけで、日の丸が墜ちる時は皆墜ちる。だから、難関の国家資格というのは本当に強いんだと思う。言わばいつでも辞められる。いつでも働けるから。
”持たない”という意識ももしかしたら大事なのかもしれない。そんなことも思う。”持たない”ということはそれだけ自由でいられるから。難しいな。でも今30を過ぎて、20代の頃思っていた世界一周をしてみたいという純粋な気持ちだけではなくなった。
20代の頃なら本当に世界一周をしても寂しい気持ちにならなかったような気がする。それは友人がもっといたし、帰国しても居場所(職)があったからだと思う。でも、30代になって心も少しだけ年老いてしまった今、もし独りで世界一周をしたら自由さと共に心細さも感じてしまうそんな気がする。そんな気がする。でもやってみたいな。世界一周。死ぬまでに。これは私の夢かもしれない。もしかしたら弁理士試験に合格するとかよりももっと大切なことなのかもしれないなあと思ったりする。
いつか死ぬまでに(できれば独りで)世界一周をしてみたい。でもそんなの無理かな。結婚するとしたら難しいかもなあ。そんなことないかな。一度で良いからしてみたいな。人生は一度きりだなと30を過ぎてからつくづく思う。多分40を過ぎるころにはもっと強く思うのかもしれないし、40の自分が今の自分に一言声をかけるとするなら「今のうちに好きなことしておけ。世界一周数か月行っても全然大丈夫だから!」って言いそうな気がする。
そんな気がする。そんなことないかなあ。
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