ミッドサマーのあらすじ
どうもニシジマです。弁理士試験の勉強の合間に見ました。ミッドサマー。確か、成田悠輔とかっていう何か眼鏡の形が□と〇のおじさんが、「高齢者は集団自害」みたいな発言をして炎上したんですよね。最近。で、その時に例として挙げていた映画が、TIMEとミッドサマー。
ミッドサマー。この映画ははっきり言ってなかなかヤバい。というか、怖い。単純なグロさとかお化けとかモンスターとか大きな音とかそういうやつじゃなくて、ぞっとする感じの気持ち悪い怖さが存分に表現されている映画です。分類するとホラー映画ではない気もします。全編通して明るい映像と明るい音楽が流れるんですけどね。それが非常にアンバランスさを出していて余計に怖かったりします。
ものすごく簡単なあらすじを紹介すると、
主人公は大学生の5人組のダニー(女)、クリスチャン(男)、ジョシュ(男)、マーク(男)、ペレ(男)。ペレはスウェーデンの田舎の”ホルガ村”出身の留学生なんですね。で、ペレがこの5人組に、「今度うちの村で夏至を祝う祝祭があるから来ないか?」という誘いから事が始まります。
みんな乗り気になって、ホルガ村に向かうと、そこは花畑でみんな明るい服装をしている人たちが演奏して超絶牧歌的に過ごしている人たちばかりの村なんですね。「え?良いところじゃん!?」ってなるんですが…。
ペレが「昔からの風習『アッテストゥパン』があって、明日それをやるから一緒に見に行こう。」とみんなを誘います。次の日5人組はホルガ村の人たちと一緒に広場に集められ…。
とまあ、ここで書くには忍びないくらいのヤバい風習がたくさんある村で、まあいわゆるカルト村に連れてこられてどんどんアリ地獄のようにはまっていくっていう映画です。
ヤバい風習は文化か
ヤバい風習を文化とみなすのか、単なるカルトとみなすのかはめちゃくちゃ難しいなあと思いながらこの映画を見てました。
ホルガ村では0~17歳、18歳~35歳、36歳~53歳、54歳~72歳をそれぞれ人生の春夏秋冬に分けていて、18歳~35歳は巡礼期で、外の世界を見る期間、36歳~53歳は労働期で労働する期間、54歳~72歳は師として人を諭す期間となっているそうで、72歳になると、崖から飛び降りて死ななければならないという風習があると。そして、死んだ後生まれた赤ちゃんに死んだ人の名前を付けることで生まれ変わると。
ホルガ村の人たちは飛び降りの儀式の後、儀式に参加していたホルガ村の女性が「これは風習であり文化なんですよ。おいおい、ペレ!説明してなかったんかい?」みたいなノリで話かけてくるんですが、もはやペレを除く5人組はドン引きなんですよね。
この風習は、老化して共同体の歯車として役に立たなくなったら死ぬことで、共同体の健全化を図るっていう風習なんですよね。
ちなみにですが、先史時代においてアッテストゥパンは北欧で本当にあった文化らしく、ある一定の年齢になって家族に迷惑をかけるレベルになったときにはこういうことがあったそうです。福祉という概念がない世界観を今の価値観で見ること自体がおかしいのですが、まあなかなかやばいですよね。ただまあ、そういう風習って少なからず日本にも江戸時代には間引きという文化があったりしたんでねぇ…なんとも。
んー。他にもこういう気持ち悪い風習がめちゃくちゃあって特に個人的に引いてたのは、誰かが悶え苦しんだら、共同体全体で悶え苦しむ声をするとか、誰かが泣き叫んだら、共同体全体で泣き叫ぶみたいな風習でしたね。あれはかなり気持ち悪い。
まあつまりは、この共同体というのは、共同体ありきで個の尊重はないという世界観なんですよね。他のヤバい風習もそうなんですが。共同体>個となった世界観って多分こんな感じなんだろうなと思ってみてました。(個があまりに協調される世の中に生きる私たちが見てるからこの映画を気持ち悪いと思うのかもしれないですね…。例えば戦中の人たちが見たりするとまた違う感想を抱くのかもしれない気もする。)
てか、ホルガ村の人たちは個の思考で動くわけじゃなくて、共同体全体の為に自我を捨てて生きる感じの人たちで、虫っぽいなという印象も…。このブログを読んでくれた人たちはぜひ見てほしい。ミッドサマー。
てか、あれなんですね。カルトとか新興宗教とかそれに類するものに依存している大勢の人たちによって作られる共同体って、虫っぽいんですよね。近年の新興宗教とかでハマってる人たちのドキュメンタリーとか見ててもそうですけど、自我を完全に捨てさせられて、共同体のために動く姿ってまさに自然の摂理の為に身を投げうることを一切惜しまないオスのカマキリとかに似ている気がします。
オスのカマキリって、交尾した後メスのカマキリにむしゃむしゃ食べられるんですよ。オスのカマキリは多分共同体の存続のために一切自分の身を惜しまずに投げうってるんですよね。あれっぽいんよね。
まあとにかくヤバヤバな風習だらけで、もう流石にここに書けないような風習もたくさんあります。まあこれはフィクション映画なのですが…。
ホラー映画だとしたら幾分か救われるのに…
この映画ってホラー映画なんですかね?ホラー映画だとしたら幾分か救われるというか、監督が怖がらせようとするために意図的に作った、作り物だということでまだ見てられるんですが、この映画ってお化けとかモンスターとかそういう怖さじゃないから、ノンフィクション感が出るんですよね。
だから、疑似ノンフィクション映画みたいに見えてくると、「やばい…怖すぎ…。」ってなるんですよ。しかも、「これはあくまでホルガ村で昔からやってる風習であり、文化なんです。」なんて正当化されると、ヤバさが10倍増しするという。
「やべぇ…狂ってる。」と見るか、それともそういう文化だと尊重するのか。難しいなと結構悩んだ。私が好きな本、アマゾンの奥地に住む原住民の生活を書いたエッセイ「ヤノマミ」にも書かれてるんだけど、このヤノマミっていう民族も子供が生まれた瞬間に、母親は育てるor精霊に返す(殺す)という選択をする。確かシロアリに食べさせるという殺し方をすると書かれていたような気がするんだけど、じゃあこれは???文化として尊重すべきか?と。
アマゾンの奥地で何千年(?)とやってきた文化であり、単純な文明社会の私たちの視点から「人権問題です。」というのは安易すぎる感じもする。そんなことを考えていると、じゃあホルガ村の飛び降りの風習は???となってくる。
誰にとっての常識?
やっぱりぶっ飛んでる世界観を描いてる映画を見ると、「はて?_常識って?」てなることが多い。海外旅行もそうだし、アマゾンの奥地に住む原住民の生活を書いたエッセイ「ヤノマミ」を読んでてもそうだし、ヤクザ映画を見ててもそうだけど、こういう自分と相いれない世界線を普通に生きている人たちを見ると、「常識って何じゃ?」となる。
いつも自分を縛り付けてるこのネクタイとスーツって何なん?みたいになってきて、よくよく考えてみると、あのぶっ飛んでる人たちが自分を見たら、
「何で毎日同じビルにあんな堅苦しい服を着て首に何かよくわからない布を巻いて8時間も缶詰になってるんや!?しかも1分遅れてめちゃくちゃ謝ってるし…。」
という狂気の世界線で生きてるんだと思う。と考えると、何をもって常識なんだ?という気にさせられるし、そもそも明日会社に行かないといけないという狭い世界の常識に囚われているのでは???という気にさせられる。
こういうぶっ飛んだものを見るのが好きなのは、『明日会社に行かなくてもいいのでは?』に帰着して安堵するためだと考える。と言いながら、明日に備えて目覚ましを合わせて今日も寝る。
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