社会通念に毒された君たちへ
自分の心に素直になって生きてみる
社会通念に毒された君たちへ告ぐ。自由に生きよう。子供の頃、私は周りにあまり囚われなかったように思う。周りがこうしているから自分もそうするみたいなことはあまりなくて、他人と共生する程度の協調性はあったし、今もそれなりにあるとは思うけど、本当にやりたくないことはやらなかった。というより、できなかった。
どうしても自分のやりたくないという心が勝ってしまうからできなかった。自分の中の指標ははっきりしていて、それが好きだったらずっとやるし、嫌いだったら全くやらないという感じだった。大人になってからもその気質はあまり変わってなくて、好きなものはずっとやれるけど、嫌いなものは全然できない。強制的にやらされることは本当にできなくて、よく言えば自分に素直で、悪く言えばわがままな性格なのだと思う。
例えば、課題で出された弾きたくない曲はどれだけ簡単な曲でも全く弾けないし、これ弾きたいなと思った曲はめちゃくちゃ練習して弾けるようになる。
例えば、何千枚ものプリントを数えることに意味を感じないから何度数えてもちゃんと数えられないし、そもそも数える気すらないのだけど、生徒の質問対応は好きだったから、たくさん時間を使ってA4の紙いっぱいに解説を書いてたくさん説明した。
例えば、中学生の頃、モンスターハンターが流行ってて周りがみんなやってたし、もはや親にも協調性をもって「やれ」とまで言われていたが、どうしてもやりたくなくて、小説を読んでいた。
例えば、釣りに何度も誘ってくれる友達がいたが、どうしても釣りがしたくなくて行けなかった。そしたらその友達は去っていた。今だったら、自分の興味の幅を拡げてみる努力を一度はしてみると思う。けど、やっぱり面白くなかったら逃げちゃうと思う。
例えば、古文はやる意味が全く分からないから全然単語も覚えられないけど、化学は先生をエレベーターの前で待ち構えて質問をしていた。
例えば、無理やりこれ面白いから!と貸された小説は読まずに放置しちゃうけど、ターミネーター2は多分8万回くらい観ている。
例えば、他人に負けて悔しいと思う気持ちが全然芽生えなかった。
中学受験の頃の劣等感は多分あれは、劣等感というか焦燥感というか、自分の中に本来ないものを無理やり作り上げられてきた性格な感じがする。もうほとんど宗教みたいなもんで、落ちたら社会的に抹殺されると親にも塾の先生にも信じ込まされてできたものだから、あれは多分、嘘の性格だと思う。
大体、そんな人間だ。とりあえず、強制されて「やれ」と言われたり、やる意味合いが自分の中で見いだせないものにはことごとく力が入らない。とにかくやりたくないのにやる意味が全くわからないのだ。
小学生の頃の友人関係もそんな感じだったと思う。恰好つけるわけじゃないけど、人気不人気とかは関係なくて、楽しいなと思った人たちとよく付き合いをしていたと思う。そんな自分は学年で一番人気者だった。だから、たまに「この子どう思う?」という謎の問いかけもあったけど、どうも思わないから「どうも思わない」と言っていた。
誰かを守りたいとかそういう大げさな哲学があったわけじゃなくて、本当に自分の気持ちがそのままだったように思う。だから損得勘定というものが小さい頃は少なかったのだと思う。
そして、それが中学受験や、中高生になった大人同士の付き合いやそういうのに揉まれるようになって少しずつ自分らしさみたいなものが消えてしまったのかもしれない。そして、損得勘定も人並み(以上)に出すようになったし、社会評価(他者からの評価、承認欲求)を求めるようになった。
そうしないと得をしないということをずっと教えられてきたし、肌感覚でも多分感じてきたのだと思う。中学受験なんかはまさにその権化だ。
そして、今も自分の感覚というのを以て生きているというところも多分にあるとは思うが(枝豆Tシャツでフラフラ歩いているみたいに)、一方で、社会評価(他者からの評価、承認欲求)という部分が大きく占めることも増えた。大人になるというのはそういうことでもある。自己満足の世界観だけでは行き詰まることもあるのだ。みんなもそうだと思う。ある程度社会から認められていることで生きている部分というのはあると思う。その認められる度合いが大きければ大きいほど、生きやすくなるのかもしれないし、生きがいを感じられるのかもしれない。
ただ、本当に「社会から認められている」ということを第一義として生きることは本当に幸せなことだろうか。よく考えたら、そんなことを考えずに好きにブランコに乗って、絵を描いていた昔の方が幸せだったように思う。
大人になったのに今更ブランコに乗っても、絵を描いてももう幸せは感じられないと思う。それはその通りだ。でも、自分の心に正直になって生きるというのはできるんじゃないだろうか。
意味のない社会通念という呪縛、世の中を上手く回すためだけのルールに則って生きる必要はない気がする。そこのレールから外れても、自分はこうしたいなと思っているのなら、そう生きた方がきっと幸せだと思う。そういう生き方をしていれば、社会からなんて認められなくても、自分で自分のことを認められるからきっともっと幸せな生き方になると思う。
他人と共生するための協調性は持ちつつも、私はだからこれからはもう少し、昔の自分みたいに、自分の感覚や直感を信じてみようと思う。知恵がついてしまって、そろばんを弾いてしまうような生き方は辞めて、「こうしたいな」「ああしたいな」と思ったら、そうしようと思う。それは小さいことも、大きいことも全部。
え?仕事辞めて地球一周とかしてるやん!と思うかもしれないけど、そうそう、そんな感じ。そんな感じで、自分が思うように「こうしよう」という生き方をしようと思う。
今も十分マイペースなのでは?と言われるかもしれないけど、これでも全然マイペースじゃないです!ユアペースです!社会評価なんか度外視して、もっともっと自分らしく、自分がこうしたい!と思ったように生きようと思います。
負けて悔しいと思う気持ちはないのかとよく怒られていたけど、今後もやっぱり誰かに負けて悔しいなんて思う気持ちは持ちません。マイペースに自分の世界のまま生きて死んでいくことにします。
他人と比較せずに絶対評価の心を持ってるなんて最強じゃないか。
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