どっちにも辛さはあるけど、結論は、自分で自分を認められるかどうかの問題

どうも、弁理士試験受験生のニシジマ(@nishijima1029)です。資格試験の勉強をする際に「働きながら」と「仕事を辞めて」とどっちが偉いんでしょうか。投げやりではなく、本気でどっちでもいいというのが結論です。
私は弁理士試験の勉強をしてるんですが、無職期間を経て、有資格者になった友人甲(弁理士ではない)とご飯を食べているときに「無職で勉強している方が辛い。仕事をやっている分メンタルが安定するし、マシだよ。」とたまに言われます(友人甲よ。題材にしてごめん!いつも感謝してます!)。
めっちゃ腹が立つとかじゃないんですけど、ほんの1mmだけ引っかかるんですよ。「働きながら」と「仕事を辞めて(無職)」とどっちがしんどいとか答えがないんですよね。友人甲の意見も一理あり、無職でやるしんどさもあるし、私のように働きながら勉強をするしんどさもあるわけです。
相手を素直に肯定してあげれば良いのに、そういう絶妙な言い回しをされるとほんの少しだけざわつくわけです(心が小さい)。適当に「そうやんね~。」と同調してるんですが、家に帰って「何でちょっとざわつくんやろう?」「何で120%で流しきれない?」と考えてました。それは、自分で自分を認められていないからなんですね。相手を自分と対等であると思ったり、相手の方が「格上」だと認識してしまっているからムキになって、流しきれてないのです。
その辺をほっつき歩いてる小学生を捕まえてきて「俺は弁理士だ。しかも、働きながら資格試験の勉強をしたのだ。」と言って、「で?」って返されたところで1ピコメートルもざわつかないわけです。凪です。どうしてざわつかないのか。それは、小学生と自分には圧倒的な差や互いの関係のなさがあって、心に余裕があるからです。
逆に言えば、私と友人甲の場合は、私にとっては友人甲は同等(もしくは格上)に感じているから、友人甲に認められたいという気持ちが働いてしまうわけです。そして、自分で自分をちゃんと認められていないから、他人に認められたくなってざわつくんです。
今回は、お題は『「働きながら資格試験」と「仕事を辞めて資格試験」どちらが偉いのか。』ですが、これに限らず、どうして他人の言葉にざわつくのか?どうしたらざわつかなくなるのかという話をします。ちなみに、ざわつかなくなる方法は「心の預貯金を貯める」です。では説明していきます。
努力する➡成果を出す➡自負する(心の預貯金)➡他人を意識しなくなる➡自分の人生を生きられる
自負とは相手を立てられる余裕の根っこである
自負と自嘲は全然違う

どうしたら他人の言葉にざわつかなくなるのか。結論から言えば、10億円もってて、天才外科医で、死ぬほど美人な奥さんがいたら多分誰に何を言われてもざわつきません。多分。
まあそれは極端ですが、周り全員がその辺をほっつき歩いてる小学生に見えるくらい「自負」すれば良いってことなんですね(※ほっつき歩いてる小学生というのは、自分にとって意識する必要がないほど取るに足らない存在という意味です。ほっつき歩いてるおっさんでもいいです)。
自負とは自分で自分の存在を認めてあげるということです。でもこれって、なかなかできないですよね。私もなかなかできません。え?できるって?それって自負ですか?自嘲じゃないですか?
自分で自分の存在を認めてあげるというのは、ダメなところも含めて自分を認める自己肯定です。それって結構難しくないですか。ダメな自分に愛想をつかして諦める自嘲は簡単にできます。しかし、自分を心の底から認めてあげる自負とは似てるけど全然違うんですね。
じゃあどうすれば自分で自分を心の底から本心で認めてあげられるかという話になるんですが、別に努力をせずとも先天的に自己肯定感が高くてちゃんと自分を認めてあげられる人間というのはそれはそれで問題なくて、ラッキーな性格なんだと思います。でも、多くの場合は、やっぱり努力をして成果を出すことで、自分で自分を認めてあげられるようになる。つまり、自負するようになるんじゃないかなと思うんですよね。でも、多くの場合、自負には努力が付き物だから、努力をしなくても手に入る自負っぽい偽物(=自嘲)で何とかごまかしてやり過ごしてる人って実は多いんじゃないかなと思います。私もそういうところがあるかもしれない。
【まとめ】自嘲は楽です。努力をしなくていいですから。でも、他人の言葉にざわついちゃうし、どこか攻撃的になっちゃうし、人生後半戦できっと自分の首を絞めます。
マツコ・デラックスがこれを読んだら「青いわね。人生そんなもんよ。他人なんか気にならなくなるから。」って自嘲気味に言う気がしますが、世間が自嘲気味だからTVショーで論調を合わせているだけで、本人はちゃんと自身を肯定しているような気もします笑 「あんた、こんな格好してテレビ出て、どうやって肯定しろっつうのよ。おとといきやがれ!!」って言われますかね笑
若者はなかなか自分を認めてあげられない
人って、若い頃は相手に認められたいという気持ちがあることが多いです。だから若い子達は、自分のためというよりも人目を気にしてオシャレをしている部分があったりします。他人が持っているものに興味関心があるのもきっと潜在的に競い合っているからです。認められたいという欲求の裏返しは「自分で自分の存在を認めてあげることがまだできません。自分で自分を保てません。」と言っているようなものです。言わば「青さ」です。
この青さは成長欲求に繋がるので、全く悪いわけではないです。この成長欲求のおかげでオシャレな服を買ってみたりするし、勉強で良い成績を取りたいと思うわけです。でも、そんな気持ちは大人になるにつれてどんどん擦れていきます。
若者という世代を通り抜けたときに、自分の中で確たる芯を備えることができた人は自負を備えることで他人に見せびらかすようなオシャレをしなくなるし、オシャレ自体しなくなるわけです(大人になってもオシャレな人はあくまで自分のためにしているオシャレなわけです)。
他人に認めてもらうために無意味に良い成績を取ったり、難関資格を取ったりしないわけです。あくまで自分のために頑張るんです。でも、若者という世代を通り抜けてもなお、自分の中で確たる芯を備えることができなかった人は自負を備えることができずに自嘲に逃げてしまいます。自嘲に逃げた人間もオシャレをしなくなります。でもオシャレをしなくなる過程が全然違うのです。
【まとめ】自分で自分を認められるようになると、自分の人生を歩めるようになる。
成長したいという欲求の根源とは?首を垂れる稲穂はしなやかで強い
自分の人生を生きるために

20代の頃、世間が口を揃えて言う「成長したい。」という欲求、世の中で実しやかにささやかれている本来人間に備わっているらしき願望みたいなものが私にはまったくありませんでした。だって、成長するためには努力をしないといけないし、成長した結果、何が得られるの?と思ってました。別に成長しなくたって、何となく働いていたらご飯も食べられるし、飲みに行けるし、遊べるやん?と思ってました。成長するために努力をして、その結果、責任がのしかかるなんてアホかと思ってました。
でも、努力して成長することで、自負が芽生えます。自負が芽生えることで他人に認められたいという気持ちを本心で捨てられるのだと最近何となく感じてきました。自負が芽生えた人間は強くて優しくて余裕があります。他人に認められたいという気持ちがありませんから。他人にどんな言葉を言われても決してブレない心を持ってるし、か弱い人の鳴き声も包んで「そうだね!」と言ってあげられる強さがあります。他人に与えられるようになるには、まず自分が富まないと無理なのです。
自分で自分を認められるようになるために、人は成長したいのだと思うわけです。自分で自分を認められるようになって初めて自分の人生を生きられるようになる気がします。弁理士試験に受かって、弁理士になった暁には、たとえ他人に悪意のある言葉を投げかけられても「嗚呼、私は弁理士だからまあいいっか。」と本心で思えるようになれる気がするわけです笑
自負という心の預貯金
そういう意味で、銀行口座に入ってる預貯金を見て安心するように、弁理士という資格を取ることで、心の預貯金になるわけです。「まあ私は弁理士で自負が備わったから許してあげるよ。この人は心の預貯金が足りないんだね。」と純度120%で思えるみたいな感じです。他人を下に見ているというのとはほんの少し微妙に違うのです。下に見ているわけではなく、心の底から悪意のある言葉に対して相手にしなくなる感じです。
自負することで他人を面と向かって相手にしなくても済むようになります。成長すると得です。生きやすくなりますから。自分の人生を生きられるようになりますから。
【まとめ】成長すると得。理由は、自分を本心で認められるようになり、他人に認めてもらう必要がなくなるから。そして、自分の人生を生きられるようになるから。
今回は、緑色のプチトマトくらい青臭くてダサい話でした。
コメント
非常に散逸的なポエムでした。
働かずに専業受験している人より働きながら勉強している人のほうが負荷が多いのは事実ですが
それをここまでレトリックに表現するのは才能があります。応援しています。
みつしまさん、ありがとうございます!応援もありがとうございます!!
なかなか大変なことばかりですが、何とか合格までこじつけます!!!